100%チベタン
「ふっー、やっと着いたな。」って感じだ。タウ(道孚)からカンゼ(甘孜)までバスで7時間。
バスの故障さえなければ、もっと早くに着いていたのに。ほんま、道が悪いし、バスがボロすぎる。
タウを午後1時30分に出て、エメラルドグリーンの川沿いのアスファルト道は、所々に陥没があり、その影響で体が上下前後にと飛び跳ねる。
俺は、この状況に慣れようと努力をしてみるが、諦める方が早いことに気づき、すんなり諦めた。
おかげで体はクタクタでしたが、景色はものすごく良かった。
荒野のような大地や山、道を歩いている、ヤクや馬、そして梅のような花も咲いていて、ただいまチベット・カム地方は春爛漫です。
カンゼへ着いた時には、すっかり夜となり、宿は、バスターミナルに併設されている『金(牛毛)牛酒店』(GOLDEN YAK HOTEL)にすかさずチェック・インした。
ここもタウと同じように、1ベッドいくらという金額設定だったが、とても疲れていたので、同居人はいて欲しくないので、1ベッド=35元のところ、1部屋を60元(約800円)でかりることにした。
部屋は、かなりキレイで、その上お湯も出るので、嬉しい限りでございます。
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タウからカンゼへ向かう途中の風景
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重いリュックを床に置き、イスに座って、インスタントコーヒーを飲みながら、タバコを一本吸った後、昼飯を食べていない僕は、近くの食堂へ夕食を食べに行った。本日のメニューは、チンジャオロースと白飯です。
と、そこへチベットの民族衣装をバリバリにまとった一団、9人が店に入ってきた。
この一団のいでたちは、100%チベタンって感じで、毛の着いた帽子を被り、汚れたチュパを羽織り、ジャラジャラとしたアクセサリーを身につけており、男は体格ががっちりとしているし、なんとなく目つきも鋭くて恐い。と言うのが、俺の彼等に対しての第一印象であった。
そんな彼等は、中国人とも見えない、外国人の俺に興味を示し、話しかけてきたが、言葉は通じず、結局は、漢族の店員が間に入っての筆談となり、彼等が何で、カンゼに来たのかなど、あまり理解出来なかったが、彼等一団は、数日、カンゼに滞在するということがわかった。
俺も、数日間、カンゼに滞在するので、また会えればいいなと思っていたが、今回のカンゼ滞在が、彼等一団と共にするとは、思っても見なかった。
翌日、朝から雪が降る中、カメラ片手に、街散策へとくりだした俺は、住宅街に足を踏み入れ、犬に吠えられビビリながら、ここを何とか抜け出そうと歩き、退散するように住宅街を抜けると、雪が積もった山々が見渡せる場所にでた。4,000mは越えているであろう、山々の麓には、大地が広がり、家々が点在し、チョルテンが建っている。そんな風景を見るたびに、すごいところへ来たんだなと、つくづく感じる。
天気が良ければもっと景色は良かったのですが、今日は、あいにくの曇り空で時々雪でございます。
俺は、街中で買った10元のマフラーを首に巻き、また歩いて、街中へと戻った。
街へと戻り、再び人々の写真を撮り始めるが、大人、特に女性は嫌がる人が多く、必然的に子供達の写真が多くなってゆく。
そんな時、昨晩食堂で出会った、チベタン集団と再会。みんな昨晩と同様に、民族衣装のチュパを羽織り、アクセサリージャラジャラで、バッチシと彼等なりに決まっています。
こういうときカメラは良い、コミュニケーションの道具となり、写真を撮るに連れて、彼等とも仲良くなっていった。彼等との撮影会を済まし、昼飯に誘われ、俺は彼等一団と食堂へ入った。
昨日は、何も持っていなかったが、今日はチベットのガイドブックやチベットの歴史の本、「知の再発見、チベット」を持ってきていたので、なにかと役に立ちそうです。
俺は、彼等一団と同じ、伸びた麺の上に、肉と野菜がのっかている、拉麺を食べながら、みんなにガイドブックの地図を見せて、タウからカンゼへ来て、次はデルゲ(徳格)へ行くと説明し、自己紹介がてらに、自分の似顔絵を描いて、みんなに見せると、一同、大爆笑!!!
そしたら、次は俺を描いてくれやらと、何人かの似顔絵に挑戦するが、上手には描けなかったが、皆さん再び、大爆笑!まぁ、みんな喜んでくれたので良かったです。
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食堂にて一団全員
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次は、「知の再発見、チベット」を見せると、みんなの顔色が変わった。
そこには、文化大革命(※1)で破壊された寺院の写真やダライラマ14世の亡命時の写真、ラサ暴動の写真も載っていた。
現在のダライラマ14世の写真を見つけると、彼等は本に載っている女性の写真と同じように、その本を額にあてていた。
彼等一団の中には、少年が一人いて、その少年が、俺が持っている、ボールペンに興味を示したので、仲良くなったお礼にと、俺は少年にそのボールペンをプレゼントしたら、少年は、嬉しそうに手に落書きを描き始め、やがてインクが出なくなったボールペンは、なんと爪楊枝代わりになってしまった。
昼ご飯を食べ、タバコの交換などをして、お湯を飲み終えた俺と一団の楽しい昼食は終わり、みんなに「ありがとう、トゥジェチェ」と手を合わせ、彼等と別れた。
一度、部屋に戻りしばらく休んでいたが、空が晴れてきて、山々がとてもキレイに見えだしたので、再び外に出て、山の写真を撮った後、街へ戻ると、一軒の店の前で、さきほどの少年が一人立っていた。
少年に話しかけると、中から一団の男が出てきて、こっちへ来いと手招きをする。
俺は、一瞬、少年が入れないような店!?なんて思ってしまいましたが、そんなことはなく、単なるチベット喫茶店でした。
色鮮やかなでカラフルな店内には、チベタン・ディスコミュージックのビデオCDが流れていて、バター茶ではなく、熱いお茶を飲んだ。
店を出た後、彼等一団は、家に帰るのか?それとも何処かへ行くのか?カンゼを発つことになっていて、男がトラックの運チャンに「乗せてくれないか?」と交渉している。
交渉が成立したのか、彼等一団は、3つのグループに分かれることとなった。
みんながバラバラになるのが、とても寂しかったのか、少年の表情は、とても悲しそうで今にも泣きそうな表情だ。俺は、少年と手をつなぎ、最初に乗った人達を見送った。
彼等の間で、どのような会話がなされたのか、俺には分からないが、少年は泣いている。
俺は、少年と手を繋いだまま、残った二人のオッサンとしばらく一緒にいたが、俺も最後まで彼等と一緒にいると寂しくなるので、俺は帰ると言って、手を振って彼等と別れた。
オッサン二人も大きく手を振ってくれたが、少年は後ろを向いたまま、振り返ることはなかった。
カンゼでは、現地の人達と、このような時間を過ごすことが出来て、本当に楽しかったし、嬉しかった。
もし、誰かに、チベット文化圏の旅をするなら、何処がお勧めかと聞かれたら、俺は迷わずに「カンゼ」と答える。
(※1)文化大革命・・・故毛沢東主席が「資本主義の道を歩む実権派打倒」のため発動した1966年5月〜
1976年10月の間、行われていた政治運動。
多数の指導者や知識人、民衆が迫害され、死者1千万人、被害者1億人とも言われて
いる。宗教が徹底的に否定され、寺院や仏像などの宗教的文化財が破壊された。
特にチベットでは、その影響が大きく、僧侶が殺害、投獄されたりした。
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